『往生』は『死ぬ』や『困る』ではない 2021/10/13(水)

『往生』という言葉があり、日本人ならば日常的に時々使われると思います。

「今朝は急に雨が降ってきて往生した」
「森の中でエンジンが故障して往生した」
「渋滞で立ち往生したよ』

これらは『困った』とか『弱った』という意味ですね。

「隣のお婆さんが今朝往生した」
金さん銀さん(古いね)のように、100歳以上になってなくなった方は『大往生』とか
「上野動物園のパンダ、大往生」という新聞記事も昔ありました。

これらは『死んだ』という意味になります。

ところが『往生』は仏教の言葉ですが、仏教では「死ぬ」とか「困る」という意味は全くありません。

『往生』は『往く』と『生きる』どこから意味が変わったのか?

そもそも、漢字を見ても、
『往』は『往く』ですから、どんどん進む。
「渋滞で立ち往生した」は、進まなくなった、ということですから、全く意味が逆になってしまいます。

また、
『生』は『生きる』とか『生まれる』ですから、どこにも死ぬ、という意味はありません。

このように仏教の言葉には、普段とんでもなく間違えて使われている言葉が多くありますから、注意しなければなりません。

『往生』には二つ意味があって

極楽に『往って』
仏の身に『生まれる』
ということを往生、と言います。

おそらく日本では、これも間違えられていますが、
「死んだら仏」だから『極楽に往って、仏に生まれる』往生を、死ぬ、という意味で使われてしまったのでしょう。

しかしそもそもこれが間違いで、死人を仏、と言っている国は、日本しかありません。
他の仏教の盛んな国(例えば、タイとかスリランカ、ベトナム、台湾)などでは、仏にそんな意味はありません。

それは、仏とは、最高の悟りを開いたことを言いますし、悟りを開く、ということは大宇宙の真理を体得した、ということです。
仏の悟りを開いた方は、地球上ではお釈迦様しかありませんので

『釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし』

と言われます。

だから誰でも彼でも仏になれるものではありません。

ではどんな人が仏になれるのか?
それが二つ目の往生です。

『往生』に二つ、二益法門が親鸞聖人の教え

もう一つの往生は、
『生かされて往く』と読む往生で、これが親鸞聖人が教えられた『一念往生』と言われる教えです。

仏教を真剣に聞いて、絶対の幸福に『生かされて往く』身になった人のことです。
そうなると、いつ死んでも『極楽へ往き、仏に生まれる』ことができますから、二つの往生が得られるのです。

親鸞聖人の教えの特徴の一つは『往生は2回ある』ということ。これは別の言葉で『臨終に2回ある』とも『二度の葬式がある』とも言います。
いわゆる『二益法門』と言われます。

詳しく知りたい方は、お尋ねください。

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