『念仏申さんと思い立つ心』とは? 2021/10/07(木)

今日も、朝から世界中の親鸞学徒に話をしました。

ラトビアのRさん、スウェーデンのKさん
あとは、スペイン語の会合には、メキシコ、コロンビア、ロサンゼルスなどから参加しました。

歎異抄7章について話をしました。

歎異抄とは、親鸞聖人の弟子、唯円が書いたと言われる、親鸞聖人の原稿録です。

歎異抄第7章は、以下の通り

念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々

『なぜ生きる』に意訳が載っていましたので、引用します。

「摂取不捨の利益を得た念仏者は、一切のさわりがさわりにならぬ、素晴らしい世界に生かされる。それはどうしてかといえば、他力の信心を得た行者には、天地の神々も敬って頭を下げ、魔界外道も恐れ入ってしまうからだ。どんな悪報も苦にならないし、いかに優れた人の努力(諸善)の結果も及ばない、まったく放たれた自由人となるからである」

念仏者、と聞くと、念仏称えている人、と思いがちですが、その後に、信心の行者、仰っていることから、ただ単に念仏称えている人、ということではありません。

それは、意訳に
『摂取不捨の利益』
と書かれているところから、歎異抄第1章の
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心の起こるときすなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
の、念仏申さんと思い立つ心の起こる時、という心が大事になりますね。

よく仏教を聞かせていただきましょう。

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