アフリカからも仏教を求める声・釈迦の譬え話 2021/10/14(木)

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今日、ケニアのDさんから、ガーナ、モーリシャスなどのアフリカ諸国にも仏教に関心があり、聞きたい、と言っている人が現れている、と聞きました。まさに

『海の内外のへだてなく』

真宗宗歌より

を実感する毎日に感動、幸せを感じ、感謝せずにおれませんね。

今日は、ラトビアのRさんに、煩悩について説明をしました。
これは『人間の実相』という話の中の、三匹の毒龍が煩悩を表しています。

お釈迦様の説かれた譬え話に『人間の実相』という話があり、とても有名です。
かのロシアの文豪トルストイが『懺悔』という哲学論文にも『東洋の寓話』ということで、引用されています。

どんな話なのか、ここに紹介したいと思います。

 ある日、釈迦の法話会場に、一人の王様が参詣した。名を、勝光王という。
 初めて仏法を聴く勝光王に、釈迦は、「人間とは、どんなものか」を例えで説いたのである。

 王よ、それは今から幾億年という昔のことである。ぼうぼうと草の生い茂った、果てしない広野を、しかも木枯らしの吹く寂しい秋の夕暮れに、独りトボトボと歩いていく旅人があった。
 ふと旅人は、急ぐ薄暗い野道に、点々と散らばっている白い物を発見して立ち止まった。いったい何だろうと、一つの白い物を拾い上げて旅人は驚いた。なんとそれは、人間の白骨ではないか。どうしてこんな所に、しかも多くの人間の白骨があるのだろうか、と不気味な不審を抱いて考え込んだ。
 そんな旅人に、まもなく前方の闇の中から、異様なうなり声と足音が聞こえてきた。闇をすかして見ると、彼方から飢えに狂った、見るからに獰猛な大虎が、こちら目掛けて、まっしぐらに突進してくるではないか。
 旅人は、瞬時に白骨の散らばっている意味を知った。自分と同じく、この広野を通った旅人たちが、あの虎に食われていったに違いない。同時に旅人は自分もまた、同じ立場にいることを直感した。驚き恐れた旅人は無我夢中で、今来た道を全速力で虎から逃げた。
 しかし、所詮は虎に人間はかなわない。やがて猛虎の吐く、恐ろしい鼻息を身近に感じて、もうだめだと旅人が思った時である。どう道を迷って走ってきたのか、道は断崖絶壁で行き詰まっていたのだ。
 絶望に暮れた彼は、幸いにも断崖に生えていた木の元から一本の藤蔓が垂れ下がっているのを発見した。旅人は、その藤蔓を伝ってズルズルズルーと下りたことはいうまでもない。
 文字通り、九死に一生を得た旅人が、ホッとするやいなや、せっかくの獲物を逃した猛虎は断崖に立ち、いかにも無念そうに、ほえ続けている。
「やれやれ、この藤蔓のおかげで助かった。まずは一安心」と旅人が、足下を見た時である。旅人は思わず口の中で「あっ」と叫んだ。
 底の知れない深海の怒濤が絶えず絶壁を洗っているではないか。それだけではなかった。波間から三匹の大きな竜が、真っ赤な口を開け、自分の落ちるのを待ち受けているのを見たからである。旅人は、あまりの恐ろしさに、再び藤蔓を握り締め身震いした。
 しかし、やがて旅人は空腹を感じて周囲に食を探して眺め回した。

 その時である。
 旅人は、今までのどんな時よりも、最も恐ろしい光景を見たのである。
 藤蔓の元に、白と黒のネズミが現れ、藤蔓を交互にかじりながら回っているではないか。やがて確実に白か黒のネズミに、藤蔓はかみ切られることは必至である。絶体絶命の旅人の顔は青ざめ、歯はガタガタと震えて止まらない。
 だがそれも長くは続かなかった。それは、この藤蔓の元に巣を作っていたミツバチが、甘い五つの蜜の滴りを彼の口に落としたからである。旅人は、たちまち現実の恐怖を忘れて、陶然と蜂蜜に心を奪われてしまったのである。

 釈迦がここまで語ると、勝光王は驚いて、
「世尊、その話は、もうこれ以上、しないでください」
と叫んだ。
「どうしたのか」
「その旅人は、なんとバカな、愚かな人間でしょうか。それほど危ない所にいながら、なぜ、五滴の蜜くらいに、その恐ろしさを忘れるのでしょうか。旅人がこの先どうなるかと思うと、恐ろしくて聴いておれません」
「王よ、この旅人をそんなに愚かな人間だと思うか。実はな、この旅人とは、そなたのことなのだ」
「えっ、どうして、この旅人が私なのですか」
「いや、そなた一人のことではない。この世の、すべての人間が、この愚かな旅人なのだ」
 釈迦の言葉に、聴衆の一同は驚いて総立ちになった。(『新装版こころの朝』一万年堂出版より)

トルストイもこの譬え話について、
「東洋の寓話を読んで、大きな衝撃を受けた」
「これ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない。単なる作り話ではなく、誰でも納得のゆく真実だ」
と言っています。

詳しい意味を知りたい方は、お尋ねください。

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