苦しみがなくならないのは、罪悪観がないからです
仏教を説かれたお釈迦様は、人間は、心と口と体で、10個の悪を作っていると説かれました。
1、貪欲(とんよく:欲の心です)
2、瞋恚(しんに:怒りの心です)
3、愚痴(妬み、恨みの心です)
4、綺語(きご:おべっかを言うことです)
5、両舌(りょうぜつ:二枚舌ともいい仲良い人の間を仲悪くする事を言うことです)
6、悪口(あっこう、と読みます。悪口ですね。『悪口雑言』と言う言葉があります)
7、妄語(もうご:嘘を言うことです)
8、殺生(せっしょう)
9、偸盗(ちゅうとう)
10、邪淫(じゃいん)
以上ですが、罪悪の話をすると、特に西洋では
「ネガティブだ」
「仏教は、慈悲とか、善とか、カルマの法則とか、いいイメージなのに、これだけは好きになれない」
と言う雰囲気を感じることがあります。
果たして罪悪を観る事はネガティブなのでしょうか?
私は決してそうは思いません。
むしろボジティブなことだと思っています。
それは、ブッダが罪悪を説かれたのは、
「お前はこんな悪いことをしているだろう」
「これから暴いてやるから覚悟しておけ」
などと、他人の罪悪を暴き立てるような意味は全くないからです。
ブッダが、罪悪を説かれたのは、罪や悪を作っていると、悪因悪果・自因自果でその人が苦しむ事になるから。
しかも、悪いことをやっていて、自業自得で苦しんでいても、自覚がない。
そう言う人が非常に多いから、どこまでも苦しみがなくならないのです。
皆さんの周りにも、
『自分は、良いことをやっているはずなのに、良い結果がやってこない』
『それどころか、不幸ばかりがやってくる。どうしてだろうか?』
と嘆いている人はないでしょうか?
そんな人を見ると、私たちは案外、
『いやそれは、違うでしょ』
『普段、そんなことを言ってるから苦しいんだよ』
『普段、夫にそんな態度とっているから、家庭がうまくいかないんだよ』
『普段、友達の悪口ばかり言っているからでしょ』
『我が身知らずだな』
と思うこともありますね。
しかし、同じことを自分にも他の人が思っているかも知れません。
人間は基本的には『我が身知らず』なんですね。
ブッダは、それでは、自覚なしに次々罪や悪を作って、余計に苦しむ。
しかも苦しんでいる原因がわからず、自分は悪いとは思えず、
『あの人のせいだ』
『この人のせいだ』
『夫のせいだ』
『妻のせいだ』
『部下が悪い』
『上司が悪い』
『社会が悪い』
『国が悪い』
などと、人のせいにばかりしていて、余計に苦しむ。
世の中では『自分原因論』で考えるのが大事、とよく言われますが、
自覚なしに、このような思考回路になっていないか、反省させられますね。
その私たちに、ブッダは、
『こんな心(欲・怒り・愚痴)は悪い心だから、思わないようにしましょうね』
『こんな言葉は悪い言葉だから、言わないようにしよう』
『こんな行為は悪い行為だから、しないようにしましょう『
と幸せになる、苦しみを解決をする道のりを教えられているのです。
幸せの第一歩は、自分と言う人間の罪悪を知ることかも知れませんね。
そう考えれば、親鸞聖人の歎異抄の有名なお言葉
のお言葉も、
と理解できるのではないでしょうか。
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