『親鸞は弟子1人も持たず』の本当の意味
だいぶん、更新をサボってしまいました。
遅れていますが、追いつけるようにアップロードを頑張ります。
今日は有名な親鸞聖人の『正信偈』について話をする会合がありました。
メキシコやベトナム、ロサンゼルス、テキサスから参加者がありました。
正信偈の最後の方に
『還来生死輪転家 決以疑情為所止』と言うお言葉があります。
『生死輪転の家に還来することは 決するに疑情を以って所止と為す』と読みます。
『還来生死輪転家 決以疑情為所止』
(『生死輪転の家に還来することは 決するに疑情を以って所止と為す』)
後半は難しいので、今日は解説はなしにします。興味がある方は、一万年堂出版の『なぜ生きる』と言う本を読んでみてください。
『還来生死輪転家』
『生死輪転の家に還来することは』
『生死輪転』と言うのは『流転輪廻』とも言いますが、
『流転輪廻』と聞くと『輪廻転生』、生まれ変わりなどのオカルトチックな話になりがちです。
実際、仏教の話をしてますと
「輪廻転生(リインカーネーション)について教えてください」
と言う質問をよく聞きます。
これは、そう言う意味もあることはありますが、本質は、
『生死』が仏教では、苦しみ。
『輪転』が輪が回るようにぐるぐると繰り返す。
『還来』も「来たり、還(かえ)ったり」すること。
『家』は人は、家を離れて暮らせないので、離れられないこと。
以上の意味を総合すると
「私たち人間が、苦しみから離れられないのは?」
と言う意味になります。
世の中を眺めますと、ハイチや南太平洋のバツアヌ諸島で地震があり、たくさんの人が亡くなったり、苦しんでいます。
日本も地震が多いですが、私のいるロサンゼルスも最近地震がありました。
どんなにお金や家族、健康に恵まれても、いつどこで、どんな災害や事故に遭って死んでしまうかわかりません。
また、本来仲良くしなければならない家族が、口論や喧嘩を繰り返している。
コロナで必要以上に一緒にいることでストレスが溜まって、したくないけど、腹を立てている、と言う人もあるかもしれません。
世界を眺めれば、アメリカならば白人と黒人の間の人種差別、アジアヘイト。
また経済的な格差もあれば、男女の差別もあります。
どれだけ科学や医学が発達しても、苦しみはなくなることはない、という真実を表されているのではないでしょうか。
差別が絶えないこの人生の中で、一切差別なく救われる世界がある、ということを仰ったのが、親鸞聖人の歎異抄の
『親鸞は弟子1人も持たず候』(歎異抄第6章)
のお言葉です。
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