約束を守ることの大切さ 2021/10/03(日)

今日は予定されていた大事な会合を忘れてしまっており、
参加していた人たちを数分待たせてしまう、という迷惑をかけてしまいました。

本当に申し訳ないです。

手帳には書いていたのですが、それを、前日、前々日に確認しておらず、
予定が全く頭に入っていませんでした。
毎日しなければならない手帳の確認をせず、日々の生活が、マンネリ化してしまっていたのが原因だと思います。
反省して、二度と間違いを繰り返さないようにしたいと思います。


仏教では、時間を守る、約束を守る、ということを、持戒、と言って厳しく教えられています。

日本人もそのことは、大変きちんとしていて、これはおそらく仏教の影響が大きいのではないかと思います。

海外にいると、時間に遅れるのは当たり前、どこの国とは言いませんが、
約束した時間を、30分過ぎてくると、
「早かったね」
と言われるところもあるぐらいです。

それに比べて、電車が数分遅れたらニュースになる日本は、やっぱりすごいな、と思います。

時間を守らなくても平気だという国の人は、約束を守るも守らないも自由だ、人間の権利だと思っているのでしょうか。
もしそうならば、それは間違っていると思います。

時間や約束を守らなければならない理由を、具体的に考えてみましたが、三つあると思います。

(1)相手の時間を奪ってしまう。
 英語でも”Kill time”、と言いますが、相手の時間を奪うことは、
 相手の人生の一部分を殺してしまうことだと思いますので、
 よく戒めなければならないと思います。

(2)相手の立場に立つ(利他行)になります。
 最近流行りの言葉で言うと、日本的な『おもてなし』でしょうか?
 相手に喜んでもらうことは、大変な善行になります。

(3)信用という目に見えない財産を手に入れられる。
 ”もうかる”という字は、”信用のある者に(儲かる)”と書きます。
 結局、時間や約束を守って一番得をするのは、守った本人だからです。

この中で一番大事なポイントは(3)番目だと思います。

世界の時計ブランド『SEIKO』を作った、服部金太郎さんのエピソードを最後に紹介します。

服部時計店、大飛躍の秘訣
どんなに苦しくとも、「約束は必ず守る」を貫いていると、大きなチャンスがやってきた

「大飛躍の秘訣は、何ですか」
 小さな時計店を、短期間で、日本を代表する企業に育てた服部金太郎は、
「チャンスをとらえたのではない。正直に努力しているうちに、チャンスが、やってきたのだ」
と答えている。
 服部金太郎は、東京の、貧しい家に生まれた。明治七年、十五歳で、時計店へ丁稚奉公に入っている。
「時計を修理する技術を身につけ、やがては、自分の店を持ちたい」
と決意したからであった。
 しかし、時計店では、なかなか技術を教えてもらえない。掃除や子守ばかり言いつけられ、苦しい日々が続く。そんな中でも、部品の名を覚えたり、先輩の仕事をのぞき込んだりして、努力を惜しまなかった。

 十八歳の時に、働いている時計店が倒産。
 以後、自宅で、古時計の修理を引き受けながら、コツコツと貯蓄を始めた。
 四年後には、「服部時計店」の看板を掲げ、ささやかな店舗を出すことができた。明治十四年、二十二歳の時だった。
 ところが、わずか六年後に、舶来物の新製品をズラリと並べる大型店を銀座にオープンさせたのである。
 急成長の原因は、何だったのか。
 当時、日本の時計は、ほとんどが輸入品だった。海外から、よい製品を、いかに多く仕入れるかが、店の売り上げを左右していた。そんな中、外国の商人たちは、他の店よりも、早く、多く、新製品や珍しい時計を、服部時計店へ納めてくれるようになっていたのである。
 その結果、品物が豊富だ、という評判が広がり、大繁盛したのは当然であった。

 では、どうして、外国の商人たちが、破格の便宜を図ってくれるようになったのか。
 それは、服部金太郎が、取引の約束を、必ず守ったからであった。
 彼は、次のように語っている。

「横浜の外国商人は、日本の時計卸商に品物を渡す際に、三十日以内に代金を支払うことを条件にしていました。しかし、約束を守らない者がいて、彼らは頭を悩ませていたのです。
 私は、絶対に約束を破りませんでした。創業当時のことですから、キチンキチンと支払うのは、かなり苦痛でした。期日に代金を納めるには、それまでに商品を売ってしまわねばなりませんが、一生懸命に努力しても、うまくいきません。だから、約束のお金を払うと、財布の中が、ほとんど空になることが、たびたびあったのです」
「当時は、海外へ時計を注文すると、船で運ばれてくるまでに相当の日数がかかりました。届いたころには流行遅れになって売れない物が出てくることもありました。しかし、いったん買うと約束した商品は、必ず引き取りました。
 相手に苦情を言おうと思えば、言えないこともありません。世の中には、そういう例はたくさんあります。しかし、私は、何を犠牲にしてでも、約束を守ったのです」

 彼の誠実な態度は、外国の商人から、大きな信頼を得た。
「この日本人は信用できる」という評判が広まり、進んで商品を納めてくれるようになったのであった。
 まさに、信用は、巨万の財産に匹敵する。

 大発展の礎を築いた服部金太郎は、時計製造工場「精工舎」を設立。国産化を推進し、「日本の時計王」と呼ばれるようになった。
 やがて、外国製品に劣らぬ時計を作り出し、「SEIKO(セイコー)」のブランドで世界へ輸出する大企業となったのである。

(一万年堂出版『こころの朝』より)

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