親鸞は弟子一人もなし 2021/10/31(日)

ちょっと長くなってしまいました。

今日は、歎異抄第6章の御心について教えていただきました。

【第六章】 専修念仏の輩の、「わが弟子、ひとの弟子」という相論の候らんこと、もってのほかの子細なり。 親鸞は弟子一人ももたず候。 そのゆえは、わが計らいにて人に念仏を申させ候わばこそ、弟子にても候わめ、ひとえに弥陀の御もよおしにあずかりて念仏申し候人を、「わが弟子」と申すこと、極めたる荒涼のことなり。 つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離るることのあるをも、「師を背きて人につれて念仏すれば、往生すべからざるものなり」なんどいうこと不可説なり。 如来より賜りたる信心を、わがもの顔に取り返さんと申すにや。かえすがえすも、あるべからざることなり。 自然の理にあいかなわば、仏恩をも知り、また師の恩をも知るべきなり、と云々。

『専修念仏の輩』は、浄土真宗の人たち。

『わが弟子、ひとの弟子」という相論の候らんこと、もってのほかの子細なり』

「この人は私の弟子だ」「この人はあの人の弟子だ」という争いがあるというのは、もっての外

「私の苦労して話をした人だから、あなたが挨拶などしないでください」

こういう派閥意識、縄張り根性が、当時、800年前にあるようだけれども、もっての外だよ、と仰っておられます。

現在、例えば、衆議院選挙で、自民党が議席を減らし、立憲がパッとしなくて維新が議席を増やしている、と言われています。
その政党の中に派閥がある。すると派閥の親分がいる。派閥の親分のいうことを聞かないと、干されてしまう。そういう、複雑な人間関係がある。

自民党でも、立憲でも、有名な議員が苦戦して、特に大阪などでは、維新の会に押されて、他の政党も敵対しているはずなのに応援に来て、非難を浴びている、ということもありますね。

「あなたは、あのグループ」「この人はあっちのグループ」派閥や住み分けをハッキリして貰わないと困る、というのは今でもありますね。

しかし、そういうことを、親鸞学徒の中に持ち込むのは持っての他だよ、と
『親鸞は弟子一人ももたず候』
とびっくりすることを仰って
「親鸞には親鸞の弟子、派閥、チーム、そんなものはない」
と言われています。
それは、もしも、私に力があって、私の人間力、教学力、説法力、私の裁量で、他の人がしていないような苦労や努力で、仏法を聞くようになったのならば、わが弟子、ということも言えるだろう。

しかし、この親鸞は、全く弥陀のお力によって、仏教を聞くきっかけができ、阿弥陀仏のお力によって、仏法を伝えることができた。すべて弥陀の本願力によってなさしめられるものである、ということをハッキリと知らされているから、
「我が親鸞の弟子、私の力で導いた弟子なんだ」
という心は全くない。それを、
「我が弟子」と思うことは、極めて傲慢不遜であり、思い上がって他人を見下すことである。

実は親鸞聖人は、普通僧侶は、赤い衣や紫の衣を着るものでしたが、墨染めの衣に身を包まれて、他の僧侶がしていない苦労をものすごいされた方です。
例えば、日野座右衛門の済度された時には、寒い雪の中で、石を枕に雪をしとねに寝まれた。もし、親鸞聖人があのようなご苦労されなかったら、日野座右衛門は仏縁を結ばれなかった。そして入西房となり、有名な関東二十四輩の一人となった。
弁円も、比叡山時代も親鸞聖人に勝てず、関東に降りてからも、親鸞聖人に教学力も布教力も勝てず、男性は、能力や才能で劣っていると、醜い恨み憎しみになる。その恨みのために、挙句に、親鸞聖人のことを、刀を抜いて殺しにくる。
弟子たちが「お逃げください」と勧めるのに
「会いたい、という人があるなら、お会いしましょう。もし、弁円に切られて殺されても、それよきっかけに、仏法を聞くようになったら良い」
という思いで、弁円の元に、
「よく来られましたね」
「御同朋、御同行」
と歩み寄られた。
その姿に心打たれて、親鸞聖人のお弟子になる。

もし、親鸞聖人以外の人であれば、そんな人たちを勧化することはできないと思います。
親鸞聖人だからこそ、日野座右衛門や弁円は、仏教を聞き、弟子になられたとしか思えない。

しかし、親鸞聖人は「弟子一人もいない」と言われています。

普通人間は、他の人ができないことをできたら自慢したい、と思うのが常ですね。

・他の人が治せない病気を治した。

・私が教えたら東大に合格した。

・私の教え子が有名な大学に入っている。

以上のような功績を出して、それほど私の教え方には実績があるんです、ということを言いたい人が多いでしょう。

だから、自己紹介するときに、自分の今までやってきたキャリアをずらっと並べる。
名刺にも肩書きがずらっと並ぶ。
それで、年俸や仕事が決まる、という側面もあります。

仏教においても、特に聖道門においては、師匠がどれだけの弟子を育てたか。
他の人ができない修行をどれだけしたか。
差別化して、自分は他の人とは違う、と言いたくなってきます。
そして、他の人から先生と言われたい。
心の中では、俺ほど偉いものはない、と思っている。
そしてそれを、自慢したい

しかし親鸞聖人は『私は弟子一人もいない』と言い切られています。

それは、弥陀の本願に救われて、75億の人間は地球上にいても、自分ほど悪いものはない、と知らされた。

そして、自分も自分以外の人も、煩悩具足の人間であってでも、阿弥陀仏のお力によって、極悪最下の親鸞が、極善無上の幸せに救いとられた。阿弥陀仏のお力で、全ての人が大悲の願船に乗せていただくことができるのだ、と教えられたのです。

その大悲の願船に乗せていただいだ仲間たちは、みんな、仏教の兄弟、上下なんかはない。
みな、阿弥陀仏のお力でなっているのだ、と仰っているのです。

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